

車いすラグビーとの出会い
僕は2002年、福島県で生まれました。生まれつき両手の指は2本ずつしかなく、脚も歩ける状態ではなかったため、3歳のときに切断することになりました。小さい頃からスポーツが大好きで、よくテレビで野球を観ていました。
車いすラグビーに出会ったのは中学2年生の夏です。主治医の先生に「スポーツを体験してみないか」と声をかけてもらったのがきっかけでした。初めて車いすラグビーのタックルを見たときは正直怖い気持ちもありました。でも、それ以上に衝撃的で、すぐにその魅力に引き込まれました。
あの瞬間が、僕の人生にとって最初の大きな「MOVE」だったと思います。スポーツ経験もなかった田舎の少年が、まさか世界を目指すようになるなんて、当時は想像もしていませんでした。
競技を続けていく中で障がいに対する自分の考え方も大きく変わりました。それまではどこかで障がいを隠したいという気持ちがあったんです。でも、国内外の遠征試合に参加するようになって、義足をつけたまま半ズボンで生活している人や、義足をつけずに堂々と外出している人たちをたくさん見かけるようになり、「自分も自然体でいいんだ」と思えるようになりました。
車いすラグビー選手としては14歳で連盟に登録され、16歳の時に日本代表メンバーに選ばれました。もしあの時にスポーツ体験会に行っていなければ、今の自分はなかったと思います。

決断がもたらした成長
もう1つ大きな「MOVE」は2022年に日興アセットへ入社したことです。
それまでは地元の役場で働いていたのですが、どうしても練習時間が限られてしまい、自分の成長に限界を感じていました。そんなとき、池(透暢)さんから声をかけていただいて、アスリート社員としての道を選びました。
2021年の日本大会で、僕はプレータイムがチームの中で一番少なく勝利に貢献できない悔しさを味わいました。しかし、アスリート社員になったことで競技に集中できるようになり、練習量は劇的に増え試合でのプレータイムも飛躍的に伸びました。あの時の選択がなければ、2024年のパリ大会での活躍もなかったと思います。
正直、最初は池さんと同じ会社に所属することにプレッシャーも感じていました。でも、行動を共にする中で、その人間性や姿勢に触れて、「自分もこんなキャプテンになりたい」と思うようになりました。

世界一のプレーヤーを目指して
競技を始めた頃からずっと掲げている目標は、「世界一のプレーヤーになること」です。ただ、プレーがうまいだけではダメだと思っています。車いすラグビーはチームスポーツなので、人としての魅力がなければ誰もついてきてくれません。
日本オリンピック委員会のスローガンに「人間力なくして競技力の向上なし」という言葉があります。世界で活躍している選手たちを見ていると、本当に人間性が素晴らしい人ばかりで、僕もそうありたいと思っています。
僕は壁が高ければ高いほど、相手が強ければ強いほどワクワクするタイプです。将来的にはアメリカでプレーしてみたいという夢もあります。自分が成長するために何が必要かを考えながら“動く”こと。それが、世界一の選手になるための一番の近道だと思っています。

応援される存在になるために
まずは、応援したいと思ってもらえるような選手になることが大事だと思っています。そして結果を出し、「アモーヴァの橋本勝也」という名前をもっと多くの人に知ってもらいたいと考えています。
僕が今ここにいられるのは、多くの皆さんのサポートがあってこそです。2028年のロサンゼルス大会に向けて、成長曲線を止めることなく、競技も人間力も常に上へと「MOVE」させながら、これからも全力で挑戦し続けます。

橋本 勝也(はしもと かつや)
車いすラグビー日本代表|日興アセット所属アスリート社員|2002年生まれ 福島県出身
先天性の障がいを抱えながらも中学生で車いすラグビーに出会い人生が一変。共に戦う池選手の薫陶を受け、今や日本代表の次代を担う若きリーダーに成長した。所属クラブチームはTOHOKU STORMERS。
「車いすから降りてできることはやろう」転機になった恩師の一言 車いすラグビー日本代表・橋本勝也選手
(※上記リンクはTUFのサイトへ移動します。)
2025/06/02 作成